「終わりの始まり」というのは、見栄えはいいけれど、実態としてはどうもとらえどころのないスローガンである。それをあえて強調したくなる理由は、さまざまな立場の人たちにそれなりにあったのだろうと私には思える。また、そのぐらいのことはおもんぱかる優しさがエイズ対策関係者の間にあってもそれはそれでいいとも思う。
ただし、終わりはいずれくるだろうけれど、そんなにすぐに来るものではありませんよという程度のことは大前提として指摘しておかなければならない。実際に「終わりの始まり」論の論者も、「終わりがもう始まろうとしているのだから、ちょっとぐらい手を抜いてもいいだろう」などということを言いたかったのではなく、「終わりの始まりといえるぐらいのところまで、こぎ着けたのだから、いまこそエイズ対策の規模を拡大しなければならない」といった文脈で「始まり」を強調していたようだ。
つまり、レトリックとして「終わりの始まり」といったことが言えたとしても(そして、実はそれはいつでも言えることなのだが)、エイズの流行にはまだ、終わりはなかなかやってこないということだ。
エイズの流行は続いている。そのこともまた、終わりが始まるかもしれないぞという期待と同じぐらい、あるいはそれ以上にしっかりと認識しておく必要がいまはある。一方は期待であり、一方は認識である。どうしたって期待の方に飛びつきたくなるのは人情だが、エイズは続いています。
私にとって、新聞記者として25年前にエイズの取材を初めて以来、ずっと「続いていること」は何よりもまず、エイズの流行が「続いている」ということだ。したがって、エイズの取材も終わっていない。
20年くらい前に私の直接の上司だったある部長(すでに退職している方です)から、「何か連載のいいテーマはないか」と尋ねられたことがある。そうですねえ・・・と考えるそぶりを見せると、すかさず彼はこう言った。
「ただしエイズ以外・・・」
私がもにょもにょと口ごもってしまったのは他でもない。エイズについて連載で取り上げるべきだと言おうと思っていたのに機先を制せられてしまったからだ。1990年代の初めですらエイズの流行に対する関心はその程度だったことが多い。
同じ上司から「宮田君はどうしてエイズの取材を続けているの?」と聞かれたことがある。
「もちろん、エイズの流行が続いているからですよ。流行はマスメディアが関心を持たなくなれば消えていくというようなものではありません。目立たないけれどずっと拡大を続けていますよ」
「そうか。そんなに大変な問題なら、また大きな話題になることもありそうだね」
誤解がないように言えば、その上司は私のエイズ取材に非常に理解があり、応援もしてくれた。それなのについつい余分なひと言を付け加えてしまうのが、私の悲しい習性といいますか・・・。
「でも、他の記者がどんどん書くようになったら、そのときもう、私は書かないだろうなあ」
困った奴だといった表情で、上司は私の顔を見た。その後、エイズがマスメディアにとって旬の話題になることも何度かはあった。そして、それよりもずっと長く、あまり関心を持たれない時期も続いた。最近は私自身が定年を迎え、嘱託という立場の記者に変わったこともあって、エイズについて直接、新聞の紙面に掲載される記事を書く機会は大幅に減っている。ただし、記者ブログをはじめ、インターネットを通じ、さまざまなかたちでエイズに関する自らの考えを述べたり、情報を伝えたりする機会は逆に大幅に増えている。
無関心を嘆くよりも、メディア環境の変化に対応して情報発信の機会を増やしていく方が重要だ。報われることのない作業を営々と続けているような感じがして少々、疲れ気味ではあるが、そのようにも思う。「続けたいこと」は、できればそうしたあり方をさらに探っていくことだろうか。コミュニティアクションは私にとって、その重要な機会のひとつであり、同時に記者として長い年月をかけて培ってきた(あまりつぶしのきかない)スキルを生かす機会でもある。発案者である長谷川博史さんには、その意味で感謝したい。